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アイダホフォールズ (アイダホ州) : ミニ英和和英辞書
アイダホフォールズ (アイダホ州)[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

アイダホフォールズ (アイダホ州) : ウィキペディア日本語版
アイダホフォールズ (アイダホ州)[す, しゅう]

アイダホフォールズ)は、アメリカ合衆国アイダホ州東部のボンネビル郡で最大かつ州内では5番目に大きな都市である。同郡の郡庁所在地でもある。2010年国勢調査では人口56,813人であり、2000年国勢調査の50,730人から12%増加した〔Quickfacts . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日. 2011年11月24日閲覧〕。
アイダホフォールズはアイダホフォールズ都市圏の主要都市であり、アイダホフォールズ・ブラックフット統合都市圏に含まれている。州内の都市圏としてはボイシ・ナンパ都市圏とコー・ダリーン都市圏に次いで第3位であるが、コ・ダリーン都市圏は近くのワシントン州スポケーンへの依存度が高いために、独立した経済と文化の中心としては第2位である。最近の10年間でボイシ郊外のメリディアンナンパが急成長したために、アイダホフォールズは人口で州内第5位まで下がった。
アイダホフォールズに行くにはアイダホフォールズ地域空港が利用できる。マイナーリーグ野球チームのアイダホフォールズ・チャカーズが本拠地にしており、市内にはアイダホ博物館がある。日本茨城県東海村姉妹都市を結んでいる。
アイダホフォールズはアモンと境を接し、州東部とワイオミング州西部の多くの地域に対する中継点になっている。州東部には近くのユーコンやイオナのような幾つかの地域社会と、シェリー、リグビー、レックスバーグ、ブラックフットおよびリゾート地であるワイオミング州ジャクソンのような大きな地域社会もある。
== 歴史 ==
アイダホフォールズの町となった所はモンタナ・トレイル上のスネーク川に架けられた木製枠橋があるテイラーの渡しだった。この橋はモンタナ・トレイルの輸送業者マット・テイラーによって1865年に建設された。テイラーは数年前に9マイル (14 km) 上流で渡し船を運航したことに続き、狭い黒玄武岩質の谷に有料の橋を建設した〔MD Beal, A History of Southeastern Idaho, 1942, p. 218.〕。1863年にプレストン近くで起こったベア川の虐殺でショショーニ族インディアンの抵抗を軍隊が抑圧したことに続き、テイラーの橋は西方への移民やこの地域への旅行に貢献した。この橋で北や西に向かう開拓者の旅が楽になり、鉱山師、輸送業者などアイダホやモンタナ、特にモンタナ西部のバナックやバージニアシティのようなブームの町の金鉱で富を掴もうとする者に重宝がられた。民間の銀行(アイダホでは4番目)、小さなホテル、有料で馬や馬車を貸す厩舎、さらには食堂が橋と同じ1865年に出現した。1866年までにこの新興の町には駅馬車の停車場や「イーグルロック」という消印の郵便局が造られた。この地域は以前から上流かつ北方にあったイーグルロックと呼ばれる渡しの名前で既に知られていた〔http://www.idahohistory.net/Reference%20Series/0071.pdf |EAGLE ROCK FERRY〕。町は川の中にあった岩島に因んでイーグルロックに名前を変えた。そこは7マイル (11 km) 北にあり、多くのワシが巣を造っていた〔。
この地域には長年牛や羊の牧場が少数あった。1874年、近くのウィロー・クリークで水利権が設定され最初の穀物が収穫されたが、数軒の農家と小さな灌漑用溝があるだけで入植はほとんど行われていなかった。ヨーロッパ人を祖先に持つ最初の子供が1874年にイーグルロックで生まれた。

ユタ準州から北にユタ・アンド・ノーザン鉄道が伸びてきて、木製橋と同じスネーク川の狭い谷を渡ったことで風向きが変わってきた。数年前にユタ・アンド・ノーザン鉄道を買収したユニオン・パシフィック鉄道泥棒男爵ジェイ・グールドが後ろ盾になって、モンタナのビュートにある新しい銅鉱山に行く道路を建設していた〔Colorado Rail Annual No. 15, 1981, pp 31-39.〕。評価作業員が1878年遅くに到着し、1879年初期には多くのテントや掘っ建て小屋で構成される野営キャンプがイーグルロックに移動し、これによくあるサロン、ダンスホール、賭博場が付いていった。ユタ・アンド・ノーザン鉄道はユタのローガンと昔の静かな駅馬車停車駅の間に動かせる16両の機関車と300両の貨車を持っていた。ペンシルベニア州アセンズで3万ドルを掛けた新しい鉄製鉄道橋が製作され、鉄道でこの場所に運ばれて、1879年4月と5月に架けられた〔Deseret News, 1879-07-17 p. article "Utah and Northern" describes the scene at Eagle Rock and describes the new railroad bridge〕。この橋は全長800フィート (240 m) あり、中央の島を使って径間は2つになった。野営キャンプはイーグルロックに移ったが、木製橋の所には小さな町があり、この時は列車の定期運行があって鉄道用の建物や店舗などの施設が幾つか建っており、町は拡大し完全に変容を遂げていた。
鉄道が開通して間もなく、開拓者達がスネーク川流域上流に農場を開き始めた。新しい開拓者の最初の者は北のエギン(現在はパーカー近く)とプールス島に農場を取得した〔The Snake River Fork County, Louis J. Clements and Harold S. Forbush, 1972 pp 25-27.〕。その後に大規模な開拓が続き、10年間のうちに道路、橋、ダムおよび灌漑用運河が造られ、スネーク川流域上流の大半は耕作用地になった。1887年、オレゴン・ショートラインの建設に続いて、鉄道設備の大半はポカテッロに移されたが、イーグルロックは急速に農業帝国の商業中心になっていった。
1891年、この町は住民投票でアイダホフォールズに名前を変えることを決めた。これは橋の下に存在していた早瀬を指すものだった。1895年、グレート・フィーダーと名付けられた世界でも最大の灌漑用運河でスネーク川の水を取り、アイダホフォールズ近辺の砂漠1万エーカー (40 km2) を緑の農場に変えた。この地域では甜菜ジャガイモ豆類穀類およびムラサキウマゴヤシが栽培され、アメリカ合衆国の中でも生産性の高い地域になった。
1949年、アメリカ合衆国原子力委員会がアイダホフォールズ西の砂漠に国立原子炉試験所を開設した。1961年1月3日、当時としては最大の原子力事故が起こった〔この事故について「アメリカ合衆国の歴史の中で唯一」と書かれることがあるがそれは誤りである。原子力事故参照。〕。
同試験所内にある海軍原子炉施設(原子力艦再利用プログラム)のSL-1反応炉から核燃料制御棒が外れ、原子炉が暴走した。救助隊が到着した時には、500レントゲン/時の放射線を出していた。制御ルームで1人が死亡、他の1人は瀕死の状態であったが、まもなく死亡した。数日後、反応炉でもう1人の遺体を発見した。爆発のエネルギーが大きかった為、反応炉から制御棒が外れ、遺体はその制御棒に胸を貫かれて天井に張り付けにされていた。3人の遺体は鉛の棺桶に入れて埋められ、原子炉全体が地中に埋められた〔http://www.cddc.vt.edu/host/atomic/accident/critical.html〕。
この事故があったにも拘わらず、アイダホ国立実験室は現在でも8,000人以上を雇用し、国際的に知られた研究所として機能しているので、アイダホフォールズ市の経済的推進力であり続けている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アイダホフォールズ (アイダホ州)」の詳細全文を読む




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